『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」読解』レビュー

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)
(2000/06)
多木 浩二

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ベンヤミンは初期フランクフルト学派に近いところにいた文芸批評家、美学者で、独特のマルクス主義(史的唯物論)解釈をもって「消費」を軸とする資本主義の分析に先鞭をつけたことで知られている(彼の自殺によって未完に終わった「パサージュ論」など)。
 本書はベンヤミンの著作の中では比較的分かりやすいものであるため、彼の思想入門という意味ではおすすめである(「パサージュ論」も「ドイツ悲劇の根源」も「歴史哲学テーゼ」も自分には読解不能だったので偉そうなことはいえないが)。

 芸術活動は神々しい自然との一体性を感じさせた呪術的性格の流れを部分的に継承したものであるため、宗教的な起源を持つものであるという(近代に入るまで、芸術は基本的に宗教芸術として発展した)。宗教的、呪術的な芸術の性格を象徴するのが「アウラ」の概念である。「アウラ」とは芸術作品の「今、ここにある」という性格を表しており、宗教的な荘厳さ、とでも呼ぶことができるものである。
 芸術が「アウラ」を有していた時代は芸術がまだ宗教的なものと結びついていたとされる。宗教には呪術的な儀式を行う場合があるが、その際、芸術作品は限られた場所で、限られた人の前で「アウラ」を帯びたものを限定的に現存させる(「今、ここにある」こと)ことにより、「礼拝価値」を有することになるという。
 しかし近代に入り、宗教と芸術が分離することになると、芸術作品の「礼拝価値」は弱まることになる。宗教においては限られた人の前でそのとき限りというものに価値があるが、近代に入って芸術が独立し始めるとそうはいかなくなる。芸術は多くの人に見られてこそ価値を発揮するものだからである。この多くの人に見られるという価値は「展示価値」と呼ばれる。そして、芸術作品に「礼拝価値」としてまとわれていた「アウラ」が薄れ、「展示価値」が芸術にとって主になっていく、というのがベンヤミンの議論となる。
 さて、近代に入って宗教と芸術が分離し始めると、芸術作品を「複製」する技術と芸術が結びついてくることになる。ベンヤミンの時代において複製技術を駆使した芸術作品の最前線にあったのは「写真」や「映画」であるが、このような複製技術の発達によって芸術作品の「アウラ」は消失していくことになる。なぜなら、「アウラ」とは芸術作品が「今、ここにあること」に伴うものであるため、複製によって大量のコピーの製作が可能となると、必然的にその「礼拝価値」は損なわれるからである。
とはいっても、ベンヤミンは「アウラ」の消失や「複製技術時代の芸術作品」に対して否定的だっただけとは限らない(辞書で「アウラ」を調べると、ベンヤミン自身は「アウラの消失」を可能性としてみていたとも、その消失を嘆いていたとも捉えられるため、微妙な問題であるといわれている)。
 では、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」に期待したことは何か。それは、人びとと芸術作品とのあいだに新たな関係を築くことにある。宗教的、礼拝的価値を有する芸術作品には、人びとを呪術的に惑わすような危険性がある(例えばナチスのように)。それに対して、展示され、見られることを前提としている「複製技術時代の芸術作品」には、人びとを呪術的な幻想から解き放ち、「芸術作品を見る大衆も、作り手側と同じように芸術作品に参加する」新しい芸術創造の可能性があるかもしれないという(例えば映画作成に代表されるのような芸術の作り方)。
 「複製技術時代の芸術作品」であっても、例えばナチスがヒトラーの映画を作製したように、礼拝的「アウラ」を大量生産するという議論ももちろん可能であるが、ベンヤミンは大衆が複製技術を使いこなし、その展示価値が持つ魔力に操られないことを期待したとも考えられる。

 これを読んでベンヤミンに興味を持ったなら、例えば三島憲一『ベンヤミン』(講談社)などがおすすめ。

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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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